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投稿日:2018年12月14日

テーマ: 社会

忠臣蔵と江戸文化

こんにちは。Y.S.です。寒くなってきましたね。
それもそのはず。8日後の12月22日は冬至ですからね。
冬至は太陽が南回帰線上を通り、北半球では一年で太陽の南中高度が最も低く、また昼の長さも最も短くなる日ですね。

さて、本日12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日として有名ですね。
私が小学生の頃はテレビで毎年のように忠臣蔵が放送されていましたが今年もやっているのでしょうか。

内容はご存知でしょうか。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)現在の兵庫県赤穂市周辺を治めていた赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城の松之大廊下(まつのおおろうか)で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りかかったのが発端です。

当時、江戸城内で刀を抜いてけがをさせたら、理由がどうであれ死罪でした。
だから5代将軍綱吉は大激怒し、その日のうちに浅野内匠頭に切腹と改易(かいえき)を命じました。
改易を命じられてしまうと領地と城を没収され、仕えていた家臣たちは浪人になります。

当時の法律では「喧嘩両成敗」として、吉良上野介も切腹するはずでしたが、切り付けられた際に刀を抜かずに一方的に切られたとして、お咎め(おとがめ)なしとされました。

これに赤穂藩の家臣たちは反発し、赤穂城の前で切腹して抗議したり、吉良を討ち取ったりすることを検討します。幕府にばれないように話し合いを重ね、計画を立てた後
元禄15年12月14日の午前4時ごろ、吉良邸を討ち入りします。
2時間ほどで吉良上野介を討ち取り、そのまま主君、浅野内匠頭のお墓のある泉岳寺に首を供えます。
そして翌年の元禄16年2月4日、幕府の命令で切腹し、46人の遺体は泉岳寺に埋葬されます。

この事件をもとに、近松門左衛門らが人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にしたものが忠臣蔵です。
当時、命がけで主君のかたき討ちをしたということで江戸中の話題となり、人気の題材となったようです。
近松門左衛門は曽根崎心中の作者としても有名ですね。

5代将軍綱吉から8代将軍吉宗の頃までに栄えた文化を元禄文化と言います。
元禄文化は上方(大阪、京都)を中心とした、初めての町人文化として有名ですが、この事件も発展に大きく寄与したわけですね。
江戸幕府が開かれて100年ほど経ち、平和な世の中になって、庶民が人生を楽しく生きようという風潮が広まっている頃です。
元禄文化の文学者といえば、近松門左衛門の他に、おくのほそ道の松尾芭蕉や、世間胸算用を書いた井原西鶴が文学では有名ですね。他にも浮世絵の菱川師宣、装飾画の尾形光琳、俵屋宗達は覚えておきましょう。

この後、寛政の改革から天保の改革までが化政文化ですね。
化政文化も町人文化です。違いは、元禄文化は上方中心でしたが、化政文化は江戸中心です。

松平定信の寛政の改革では、出版統制や政治批判を禁止したため庶民の反発を買いました。
水野忠邦の天保の改革の頃は、ききんによる米価上昇、打ちこわし、一揆が起こります。
大塩の乱もこの頃です。
長く江戸幕府による倹約令が続いたため幕府に対する不満がたまり、公に批判ができないので、しゃれや皮肉、風刺が喜ばれるようになります。

俳句では小林一茶、与謝蕪村が活躍します。また、川柳や狂歌が生まれるのもこの時代です。
小説では東海道中膝栗毛の十返舎一九、南総里見八犬伝の滝沢馬琴、浮世絵の喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川(安藤)広重が有名ですね。

他にも8代将軍吉宗が、洋書の輸入禁止を緩和したため、杉田玄白や前野良沢らが、オランダのターヘル=アナトミアを翻訳し、解体新書とします。この翻訳の際に「神経」や「鼓膜」といった言葉が作られました。
西洋の知識を取り入れ始める時代ですね。

また、儒教や仏教の考えでなく、日本古来の考え方を重視した「国学」も盛んになり、本居宣長が古事記伝を完成させます。国学はこの後、天皇を尊重する考え方と結びつき、幕末の尊王攘夷運動に発展します。

それでは今回はこのへんで。

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