「日日是学日!」(⇒ 日々、これ学び!)」
受験Dr.の松西です。
今回は「入試国語・論説文」の読み方についてお話します!
まずは「コペルニクス的転回」という言葉を覚えてください。
「あ、これは論展開にコペルニクス的転回が使われているな」というように、論述展開の
パターンの一種として扱いますよ。
皆さんが散歩やジョギングするとき、「知ってる道」と「知らない道」であれば、
「知っている道」の方が、身体が勝手に動いてくれるし道にも迷いません。
「この論説文の展開はおそらくこうなるだろうな」という見通しを立てることができる、
論説文の重要な読解の型のひとつが、今回の題材です。
論説文で迷子になりがちな受験生ほど、身に付けたい『型』です。
元となったコペルニクスの逸話を長々語るのは趣旨に反するのですが、少し扱いつつ
ビジュアルで「転回」のイメージをお見せします。
コペルニクスの生きた15~16世紀は「地球が宇宙の中心である」という天動説が信じられていました。ただし多くの天文学者からつじつまの合わない天体の動きなどの事象が観測・指摘されていました。「天動説を基盤にしたのでは矛盾がある。何か重大な見落としがあるのかも
しれない」。そしてコペルニクスはある時ひらめきます。「地球もまた、他の惑星と同じように公転しているのではないか」と。

ここでみなさんには「中華料理屋にあるターンテーブル」をイメージしていただきたいです。
今回は国語ですから、大事なのは「コペルニクス」の偉業そのものではなく、イメージです。今から「常識に反する考え」を、手前に引っ張り込みます。

30度や45度程度の「修正」ではなく、現在の常識と180度真逆の発想をするわけですから
「転回」。そして大切なのは「それを支える具体的かつ客観的事例の列挙」となります。
単に思い付きではないことを論展開で示さなければなりません。
この「発想の180度転回の動き」をコペルニクス的転回と呼びます。
入試国語・論説文に頻出するパターンのひとつを、この発想法と構造が似ていると考えた私は
「コペルニクス的転回」型、と呼んでいます。
では、実際に入試国語で用いられる論展開の実例を、各種短めにご紹介します。

この「本当にそうでしょうか?」を問題提起といいまして、筆者の論展開が本格的に
始まるときに表れます。読解上、受験者は気を引き締めるべきフレーズです。
このフレーズ、みなさんはテストなどで見慣れているのではないでしょうか?
「自由は素晴らしい」、100人に聞けば100人が「そうだ」と答えるでしょう。つまりは
常識に近い。筆者はそれをひっくり返していくわけです。
このように、じつは「カチッとした論説文」ではわりと頻出の型なんですね。
なぜ頻出かというと「問題を選ぶ学校の先生が好んで使うから」です。
なぜ好んで使うかというと…
私の意見ですが「本文の展開がきちんと追えている受験生」を優遇するためです。
論理的に話をおさえる能力があれば、どの教科においても伸びる可能性が高いですからね。
一つ例題を出しましょう。
2017年の淑徳与野「植物はなぜ動かないのか」(稲垣栄洋・著)より引用します。
(問題が入手可能であれば、実際に見ていただくとより分かりやすいですよ)
はじめに「自然界の弱肉強食に触れ、その最下層に植物がいることを確認」←ここまでは常識
「しかし、本当に植物は、自然界で最も弱い生き物なのだろうか」←原文より引用(問題提起)
この一文以降は気を引き締める必要があります。要約すると「最弱の被捕食者である植物は、『食を支える』という意味では全生物の生死に影響するともいえるし、状況次第では一番強いと言える場合もある」という論展開をします。ここで「なぜそう言えるのかという論拠」が
いくつあるかを数えつつ通し番号を書き込む。
この書き込みをできる受験生が「論理に強い子=論説系文章で迷子にならない子」です。
ほんわか読んでいる受験生をひっかけるような選択肢などは、塾講師であれば簡単に
作れます。なんせ「常識の方が耳に心地がいい」わけですから、筆者の言うややこしい意見を無視して文中に使われている単語を目立つように使いつつ、「小学生が一般的に持っているで
あろう常識」に寄せてあげればいいのですから。
ステレオタイプな事例でたとえましょう。
国語の成績が偏差値50台前半~60台前半とバラつきがある「うっかりちゃん」と、
国語の成績が偏差値ほぼ60台以上で安定している「しっかりちゃん」。
二人とも「動物の方が植物より強い」という常識の中で育っています。

この両名に、「コペルニクス的転回が論展開に用いられている」論説文を読んでもらった時の
応答差をイメージしたものがこちら

しっかりちゃんは「一般常識からかけ離れた筆者の意見にきっちりと乗っかり、論の根拠を
すべて拾いきれている」印象。
うっかりちゃんは「根拠中の目立つ単語は拾えているけれど、自分の中で整理できておらず、
設問を進めるうちに混乱し、『もとの一般論』をちらつかせると、つい選んでしまう」印象。
つまりは『迷子』ですね。
ついでながらしっかりちゃんは「根拠も整理して押さえているので、選択肢のおかしな条件は
見破って弾く」ことができます。
たとえば、「植物が存在しないとすべての動物は生きられないので、植物こそ最強の存在である。(淑徳与野の設問そのまま)」などという選択肢が来ても、「いや、それは筆者が挙げていた根拠から外れているよね。『もしかすると~(略)~植物が、一番、強いかも知れないのである』と、あくまでとらえ方によってはそうとも言えるくらいの力加減だったもの」と見抜き、秒殺で✓マークを付けます。つまりは選択肢を絞る判断が「正確」で「早い」。
近年の「時間が足りない長文国語」では必須のスキルです。
いっぽう、うっかりちゃんは「本文の読解にやや苦戦している」ため、しっかりちゃんのように「筆者の意見の力加減」までは、見る余裕がありません。「一番強い」という単語と「最強」という単語を安易に結びつけてしまうのは、それが実力と言ってしまうのは酷ですが…本来は
論展開さえおさえられていれば易々とひっかからないくらいの力を持っている生徒も多い。
ただ、筆者の論展開についていけず、「あれ?」っという不安が減りゆく時間とともにテスト中に大きくなってしまい、文展開や根拠を見落としがちになっているのですね。後で一緒に文章読解を伴走してあげると「そういうことだったのか」と、理解する力は備えているのです。
オブラートに包んで表現するなら「ハマればいい点が取れる」状態です。
ならば必要なのは「頻出の読みの型を習得し、ハマる確率を増やす」ことだと私は考えます。
そろそろまとめます。
・常識を180度転回させる論説文は、入試の素材文に人気。
・新しい観点(知識)を、論展開に従って整理し、理解できているかがカギ。
これらに付け加えるなら
・しっかりちゃんは「客観的思考」で判断し、うっかりちゃんは「主観が混ざりこむ」
「客観的思考」というフレーズ、入試国語で最も重視すべき概念です。
いかに「思いこみ」を排することができるか。論説文も物語文も、どちらの読解にも
「客観的思考」を磨く努力を積むことが大切なんです。
「コペルニクス的転回を用いた論展開をしているね。筆者の主張は何?
そしてその根拠はいくつあった?」
「客観的思考」が身についている生徒と交わす会話の一例です。
このように点をおさえて丁寧に論展開を追えば、論理は線でつながっている…だから結論も
途中の時点からすでに見えてくるのです。
国語はすべての教科のベースになる「読解力」を鍛える科目です。たしかに「本なんて誰でも読める」。けれども「本当に文章を読めているのか」は別の話です。
中学からの読書時間を「本当に生きた知識探求の時間」にするためにも…
「日日是学日!」(⇒ 日々、これ学び!)」

