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投稿日:2019年09月20日

テーマ: その他

随筆文を読むときに意識すべきことは?

こんにちは。受験ドクター国語科のS.M講師です。
前回は物語文について書いたので、今回は随筆文について。
普段国語の単元について話すときには
物語文説明文・論説文ではどちらが得意だ、苦手だ」
と大きくふたつに分類した表現をすることが多いのですが、
実は地味~に苦手な子が多いのが、この随筆文
物語ほどドラマティックな展開をもつわけではありませんし、
論説文ほど筆者が何かを強く主張しようとしているわけではないので、
「なんとなくサラサラ読めはするんだけど、解こうとするとよく分からない……」
ということになりがちです。

どの塾でもどの教材でも、「事実(体験・見聞)と意見(感想)を区別しましょう」と
口を酸っぱくして言ってくるわけですが、なんで区別しなきゃいけないの? という点を
わざわざ説明している書物や先生ってあまり見かけない気がしています。

じゃあ、なぜ区別しなければならないのか?
⇒筆者の意見や感想こそが、その文章を書いた動機、
その文章をもって筆者が読者に伝えたいと思ったことだからです。

同じ出来事を体験しても、そこから思うこと・考えることは人によって異なりますよね?
たとえば「駅の階段でベビーカーを押したお母さんが困っていた」という事実に対して
「誰も助けてあげないなんて日本人は冷たい…」と嘆く人もいれば、
「鉄道会社は一刻も早くエレベーターを完備すべきだ」と考える人もいれば、
「声をかけたかったが断られたらどうしようと思ってできなかった……」と反省する人もいるわけです。
それぞれの人が同じ出来事をもとに文章を書けば、まったく違ったものになりますね。
だから、我々読み手はその「違い」の部分に着目すべきであるのです。

つまり、筆者の主観の部分を正しく読み取ることこそ、
随筆文においてはもっとも重要な部分であるということです。
そういう意味から、私は「随筆文は論説文のように筆者の意見を読み取るべし」と
ふだんの授業のときにも指導しています。

実際に文章を見てみましょう。以下は佐藤春夫の「われらが季節感」という文章の一部です。
(別に問題を出したりするわけではないので、ざっと読んでいただければOKです)

「ぼくはもう極楽行きは見合わせることにきめたよ」

とある時、芥川龍之介が、例のいたずらっぽい眼をかがやかしながら、

わたくしに話しかけたことがあった。

「?」これはきっと何かあとにつづくおもしろい言葉があるに違いないと予想したから、

わたくしがあとを期待していると、彼は言うのであった。

「極楽は四時、気候、温和快適だとかで、季節の変化は無いらしいね。

季節の変化のない世界など、ぼくにはまっぴらなのだ」

いかにも芥川らしい言い分であつた。彼は一面で俳人であり、

俳句は季節の変化を主題とする文学だから、芥川が季節に変化のない世界を

まっぴらだというのはもっとも千万である。

極楽浄土には季節の変化以上にこれを償って余りある種々な精神的悦楽もあるらしいが、

それにしても、芥川が季節の変化を無上の喜びとしたらしいこの言い分は、

俳人ならずとも、すべての日本人に同感されてよいものと思う。

そもそも、われらが日本の国土は、世界の好もしい部分に位置して、

季節の変化という点にかけては、全世界でも二つと無い豊富なところなのではあるまいか。

わたくしは日本以外、広い世界のどこでも半年以上を住んだことはないのだから、

井戸の蛙のたわごとかも知れないが、四季それぞれに、さまざまな衣類が

世界のどこにくらべても多すぎるほど多いらしい事実に鑑みて、これは我々の日常生活が

格別にゆたかというでもないのに、衣類だけがこう発達したのはわが国の季節の変化が

それほど微妙なため、またはわが国人が季節の変化に敏感なためだと思えるからである。

季節の変化が多いというのも、それに対して敏感というのも、つまりは同じことである。

そうしてそのためにこそ季節の変化を主題とする俳諧のような文学も発達したのである。

季節の変化に敏感なということは、わが国が、由来農業国で天候や四季の推移に対して

生活が直結していたという事実によるものかとも考えられる。

その原因が何であったにもせよ、わが国民一般がゆたかな季節感を持ち、

その自然とそのなかの生活とにおのずからな詩情を持っていた事実は争われまい。

そこに俳諧が生まれ発達したのであろう

昭和38年の文章ゆえ少々の読みづらさはあるかもしれませんが、
「事実(体験)」と「意見(感想)」がはっきり分かれていることはわかると思います。
この文章では、内容が「芥川龍之介との会話」という体験から、
赤字のあたりから「日本人がもつ季節感というものについて」という考え事へと移行しています。
「随筆は論説文のように筆者の意見を」式で考えれば、赤以降の部分が重要であるということです。
今回のように、個人⇒日本人のように述べる対象が幅広くなる場合は、特にわかりやすいですね。
(私はこれを「主語が大きくなる」と表現しています)

具体的なエピソードから、抽象的な思考へ。
その思考部分こそが、随筆文において中心となる部分!

随筆文を読むときには、まずそこを意識してみてくださいね。

※実際に入試問題で出題されるような随筆文では、内容を理解できるかという段階を超えて
表現の面(比喩など)から問題が出される場合も少なからずあるようです。
そちらについてはまたの機会に……。

それでは、また(・ω・)ノシ

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