国語ができない人|中学受験専門国語塾ドクターが「国語」の偏差値をアップさせる奥儀を伝授!

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国語ができない人

1.読書量に頼りすぎる人

 

国語は漢字・語句以外具体的な学習法が思いつかないせいか、「とりあえず読書量を増やす」ことで対処しようとする向きがある。確かに物語文を好んで読む生徒は場面を映像化し、登場人物の心情を的確にとらえる力をもっているように思われる。しかし、所詮は趣味の領域である。読書は上記のメリットがある一方、主観的なものの見方に陥らせてしまいやすい。それは、普段の読書と同じように課題文を情緒的に読んでしまうときに起こる。国語の文章は「文がたくさん集まった一種の図形」としてとらえ解いていかなくてはならない。つまり、算数と同じで余計な感情を入れず、論理的に解いていくのが国語に対する接し方なのである。だから、物語文と同様、論説文や説明文にも情緒的な読み方は適用されない。問題作成者はそのことをとっくに見抜いて問題(特に選択問題)を作成するので、読書量がいかに多くても、自分勝手な読み方で通してしまう生徒はいとも簡単に引っかかってしまうのだ。読書自体は勉強の妨げにならない程度にし、論理的思考を意識していただきたい。

 

2.「国語は日本語だからいつでもできる」と思っている人

 

国語イコール日本語ならば日本語のベテランである年配者は偏差値60レベルの入試問題なら楽々合格できるはずである。が、現実はそうではない。それに、もし国語イコール「だれでもできる日本語」ならば、わざわざ国語を入試問題に加えないはずである。国語のテストの目的は、生徒がどのくらい論理的に筋道を立てた思考ができるかをみることである。 そして、この能力は国語のみならず「生きていくうえで不可欠な要素」として、あらゆる物事に通じる。学校側はそういうことが身についた生徒がほしいのであり、読み書きができるだけのレベル(普段の日本語レベル)を求めているわけではないのである。 入試の「国語」と日常の「日本語」は似て非なるものである。それゆえ国語を日本語の延長としてとらえず、一から学び直そうという謙虚な姿勢が求められる。「入試に成功する人は算数のできる人、失敗する人は国語のできない人」。国語はなめてかかると痛い目にあう教科である。

 

3.頑固な人

 

偏差値20アップをうたっている当塾ではそれを実現してしまう生徒が少なからず存在する。たとえば去年入塾時の偏差値38だった生徒が年末に66(統一合判テスト)をとったり、偏差値40台で入塾した生徒が3ヶ月後に70(四谷週例テスト)をとるなど枚挙にいとまがない。しかし、これらの生徒に特別な才能があったとは思えないし、特別な課題を与えたというわけでもない。ただ一つ考えられることは彼らが皆「真面目な生徒」であったことである。ここで言う真面目とは「授業中静かにしている」といった低レベルな意味ではなく、「教わった通りのことを素直に実行する」という意味である。本来「学ぶ」とは「まねをする」から派生した言葉である。つまり、国語ができる講師のやり方を自分たちが吸収し、そのまま実行すれば勝手に力がつくという極めてシンプルな話であり、そもそも塾に通う目的はこれだけのはずである。伸びない生徒はその本質を忘れてしまい、勉強量を増やしたり、自分勝手なやり方を通したりと余計なことにエネルギーを使ったあげく、「いつまでたっても成績があがらない」と不満をもらす(親も含め)。それは「東へ行くように」とアドバイスされたのに、それを無視し自分勝手な判断で西に向かっているにもかかわらず、「どうしてこんなに頑張っているのに東にいけないんでしょうか」と嘆くようなものである。やっかいなことに間違った方向に努力すればするほど成功から遠ざかる。早くそれに気づくことが望まれる。さらに望まれることは「自己流の解き方を捨てる」ことだ。成績を順調に伸ばしているのはそれがうまくできた「柔軟性のある生徒」である。国語のできない生徒に問いたい。「いままで自己流でやってきて、うまくいったためしがありますか?」「うまくいかなかったことを今後も引きずる理由は何ですか?」引きずる理由は、新たなやり方を身につけるのがおっくうな「面倒くさがり屋」だからか、本気で中学入試を成功させるつもりのない「向上心のない生徒」だからかであろう。職人さんならともかく、自分のスタイルを変えようとしない頑固さは中学受験においては「百害あって一利無し」である。

 

4.短気な人

 

親御さんを含め、すぐに結果を求めたがる「短気な人」も成功とは無縁である。偏差値は株価ではないのでその動向にいちいち一喜一憂してはならない。「模試の結果は良くて良し悪くてさらに良し」である。結果が悪ければ入試までにそこを補えということである。「本番前にそれに気づかせてもらえた。ありがたい」と受けとめること。模試は練習試合にすぎないので、そこから何かを得ることが重要であり、模試の目的は本来そういうことである。話を戻すが、国語は他教科と比べ思考を根本から変えていく作業が不可欠な分、時間がかかる。上記の「真面目な生徒」ですら最低一年は要する。目先の成績にとらわれず、教わった通りのことをコツコツとこなした生徒の学力のピークが、大人の脳になりかける入試の時期にドンピシャリはまったときが勝負であり、そのタイミングを見計らって指導していくのが講師の役割である。そして、そのときまで生徒・親・講師が辛抱できるかが重要なのである。以前、何度か挫折しかけながらも、秋口55だった偏差値を入試直前に65にまでもっていき、麻布中に見事合格した生徒がいた。彼は同時に「忍耐力の重要性」も身につけたはずであり、それは今後の人生の支えになるだろう。逆にすぐにあきらめたり、辛抱できない人は何も得られない。「短気は損気」昔の人はうまくいったものである。