指導法

国語は四科目の中でマンツーマンがもっとも望ましい科目である、と断言します。
理由は「本を読む」という行為の“曖昧さ”にあります。
論説文も物語文も、「読みに段階がある」こと、そして「読めている深さの段階が人それぞれだ」という時点で、集団指導形式で全員を理解に導くことには限界があります。
ましてや小学生であれば思考力や語彙力は、同じ学年であってもバラつきが非常に大きい。
つまりは、その生徒に合った指導を、講師が観察し、推定し、持っている“引き出し”から最適な指導法を取り出し、定着させるというプロセスが望ましいのです。

中学入試・国語は文章が年度を追うごとに長文化する傾向が続いています。
私が指導で「本文を読んでくること」を課題にする場合は、その生徒が文章をどのように読解したか、“その生徒の読みのクセ”を確認する目的があります。この“クセ”というものはテストを課す作題者の側にも存在します。たとえば、ある素材文が塾のテキストに採用された場合、その文章の問われる部分はおおむね決まってきます。その作題側の勘所と、担当する生徒の読み方、二つのクセをすり合わせて「読みを最適化していく」行程を共に組み上げていく。このような高いレベルで「マンツーマンが望ましい」、と冒頭で述べました。

国語は極端な話、「自分の“頭”がもう一つあって、その“頭”と意思疎通を交わす」のであれば、指導が一気に簡単になります。知識も、思考も、感性も、経験も、性格もすべて同じなのですから。よって、中学国語指導の難しさは「言葉という曖昧(あいまい)なツール」を用いて「異なる“頭”の持ち主間で意思疎通をする」点、さらには学習者が小学生であるのに対し、対象となる文章が明らかに中学~大人向けの内容である点にあります。主役はあくまで生徒です。生徒の“頭”がフル回転して、どんな思考をしているのか、待っても答えが出ない状態か、素晴らしいひらめきが今まさに生まれようとしているのか。「啐啄(そったく)の機」という言葉の通り「生徒の学びの芽吹く気配」を外から見極め、機が熟すよう環境を整え、その時を逃すことなく学びの扉を一緒に開くことが私の仕事です。

ここまで「概論」「抽象的内容」が続きました。理屈っぽい話が続いては、読まれているみなさまも読みづらいでしょうから、ここからは「具体的な指導例」を交えて進めます。

素材文として著作権が切れているものを使います。やや古いですが、文豪・井伏鱒二の「山椒魚(さんしょううお)」を引用します。
子供の時に読むのと、大人になってから読むのでは大きく印象のかわる作品です。
今回は“子供の目”に合わせて読みます。この素材文を実際に出題した、関西の名門校「洛星中学・2021年(前期)」の設問を引用します。

【文章】
あらすじ…水底の安全な岩のねぐらにじっと閉じこもり、ひっそり暮らす山椒魚。あまりに長い時間を岩屋の内で過ごし続けてきたため、ある日住みかから出られないほど自分の身体が大きくなってしまっていることに気づいた山椒魚だった。ある時は絶望し、ある時は達観し、ある時は外の小さな生き物をばかにしながら日々を送ることで自らの不幸な境遇をなぐさめる。


かれは全身の力をこめて岩屋の出口に突進した。けれどかれの頭は出口のあなにつかえて、そこにきびしくコロップ(コルクのこと)の栓をつめる結果に終わってしまった。それゆえ、コロップをぬくためには、かれはふたたび全身の力をこめて、うしろに身をひかなければならなかったのである。
このさわぎのため、岩屋のなかではおびただしく水がよごれ、小えびのろうばいといってはなみたいていではなかった。けれど小えびは、かれが岩石であろうと信じていたこん棒の一端がいきなりコロップの栓となったりぬけたりした光景に、ひどく失笑してしまった。まったくえびくらいにごった水のなかでよくわらう生物はいないのである。
山椒魚はふたたびこころみた。それはふたたび徒労に終わった。なんとしてもかれの頭はあなにつかえたのである。
かれの目から涙がながれた。
(中略)
岩屋の外では、水面に大小二ひきの水すましがあそんでいた。かれらは小なるものが大なるものの背中にのっかり、かれらはとうとつなかえるの出現におどろかされて、直線をでたらめにおりまげた形に逃げまわった。かえるは水ぞこから水面に向かっていきおいよく律をつくって突進したが、その三角形のはなさきを空中にあらわすと、水ぞこに向かってふたたび突進したのである。
山椒魚はこれらのかっぱつな動作と光景とを感動のひとみでながめていたが、やがてかれは自分を感動させるものから、むしろ目をさけたほうがいいということに気がついた。かれは目をとじてみた。悲しかった。かれはかれ自身のことをたとえばブリキの切りくずであると思ったのである。
だれしも自分自身をあまりおろかなことばでたとえてみることは好まないであろう。ただ不幸にその心をかきむしられるもののみが、自分自身はブリキの切りくずだなどと考えてみる。たしかにかれらはふかくふところ手をしてもの思いにふけったり、手ににじんだ汗をチョッキの胴でぬぐったりして、かれらほどおのおの好みのままのかっこうをしがちなものはないのである。

【解説】
記述の80字というのはむしろ首都圏でこそ、よく見られる制限字数です。
必要な方はぜひ習熟しましょう。
先ほどの指導理論の中で「引き出し」という比喩(ひゆ)を用いました。今回は「引き出し」の実例として文章以外に
・図
・表
を用いて解法に迫ります。そして「作題側のクセ」という表現も用いました。
たとえば今回の文章で、攻略上もっとも大切な箇所のひとつが「あらすじ」です。
なぜかと言えば「私が付け加えた」からです。なぜ付け加えたか?
まず洛星の問題をすべて掲載する紙面がありません。ですが、この設問に至る経緯をカットしては、この文章の「山椒魚」の行動原理が読み取れません。したがって「作題側(今回は洛星の問題を引用した私)の都合で、あとから付け加えたもの」であるので、ここを入念に読むべきだ、というのが「受験生にあるべき『最適化された読み』」です。
ですから私は初見の生徒が文章を読んでくるとき、あらすじの内容がどれほど頭に入っているかは必ずチェックします。「この情報がないと設問が解けないから作題者が付け加えた箇所」が、他の文章箇所と同レベルの情報価値でとどまるわけがありません。
これが「入試国語のクセ」です。長文化するため、一定の走り読みを余儀なくされる物語文の読解。指導を受けた生徒は「あらすじをしっかり読み、本文で速度を上げる」のです。
その逆はあり得ません。

次に、本文理解の確認ですが、ここで「文章にまとめて口でスラスラ説明できる生徒」は、あまり国語でつまずくことがありません。「読解要素」に関しては出来ているわけで、後述の「客観的論理」で苦しんでいる可能性はありますが、「比較的国語が得意な生徒」というポジションを維持しているはずです。

では、国語がやや苦手な生徒にはどうするか。今回は「図」を用いて例示します。
matsunishi-1
まずは岩屋のかげに入りこみ、2年を過ごしてしまった山椒魚をイメージします。ここまでは単なる状況のすり合わせ。次が本番です。
matsunishi-2
こちらは「山椒魚の主観」により近づけた図になります。せまく、暗く、単調な時間を繰り返す「永遠のすみか」に閉じ込められました。生徒の学びの段階に応じて、ここで登場人物の「心情語」を思いつくままに書き出させる時もあります。心情語はいわば「手札」のようなもので、持ち数が少なければ勝負に(つまり国語の物語文読解に)致命的な不利をもたらします。今回はそこを省いて記述の攻略に移ります。
matsunishi-3
【設問より】
やがてかれは➀自分を感動させるものから、むしろ➁目をさけたほうがいいということに気がついた」とありますが、なぜ「目をさけたほうがいい」のですか。その理由を八十字以内で説明しなさい。

受験国語的には➀「・・・・・・」ので、➁「・・・・・・」から。という形を想定するべき問い方です。➁は誰でも気づきますが、➀を論述する必要性に気づかない生徒が一定数います。これは先の「図」のように関係性で登場人物をとらえていないからです。
もう少し書き足してみましょう。
matsunishi-4
この文章において➀(蛙…実際にはみずすましなども並立に描かれているので、解答では「水面で活動する生き物たち」などと含みを持たせるべきでしょう。字数の都合上、蛙と表記します)はどういう象徴か、➁(山椒魚)は自らをどのような存在ととらえているか。その関係性が➂の「ながめていた」という行動を➁に取らせます。そして今回聞かれているのは④(➁の心情)です。80字の字数をどんどん割っていきましょう。

➀「  (35字)  」ので、➁「  (35字)  」から。

つまり80字の記述というのは「35字の記述を二つ」問われている。こういうケースが非常に多い。どうでしょう。ずいぶん書きやすくなったのではないでしょうか。

次に➀と➁の対比です。ここでは「表」を使いましょう。
matsunishi-5
シンプルにしました。「蛙に有って、山椒魚には無いもの」「それのために、山椒魚が蛙に目を奪われたもの」を想起して、Aにあてはめます。何が入るでしょうか。
そしてその言葉が、本文における両者の存在を大きく分かちます。

こういう形で、整理・問い・思考を繰り返します。
先ほどの問いの解答は「自由」などの言葉になります。

➀「  (35字)  」ので、➁「  (35字)  」から。

➀には蛙の自由な様子を、本文の言葉を用いてあらわし、後半は「そこから目を背けざるを得ない山椒魚の置かれた状況、そして心情」を書きます。とくに最後の「心情」は、問い方にもよりますが、物語文であれば多くが心情を問うものですので、「入試国語の勘所」として必ず意識したい。「手札」としての心情語ボキャブラリーが必要です。

解答はこのような形になるでしょう。

水面を活動する生き物たちの自由な姿に感動したものの自分は岩屋から出られない(←37字)ので、
見れば見るほど不自由な自分の状況がいっそうみじめでいたたまれなくなる (←34字)から。

もちろん別解も可能です。ポイントは「登場人物(山椒魚)になりきるため」に「決まった手順を踏む」ことです。

図中の➂の矢印、なぜ「ながめてしまうのか」を➁のこれまでの描写、➀の描写から読み取り、言語化できれば「最も早い」です。つぎに「表で表す」。それでも出てこなければ「図示」する。これは複雑な人間関係を描いた作品の時ほど効果を発揮します。

こうして決まりきった手順で毎回、正しい解答が得られるのは、国語が「客観的思考力」を試されているからです。作題者の選んだ文章を、作題者の作った設問の切り口から見た場合、正しい論理が身についていれば、得られる解答はある程度一定範囲に収まる。ですからテストとして成立するわけです。

以上、「生徒の“クセ”・出題者の“クセ”」の話、「多様な生徒ごとにバランスを変えて指導する“引き出し″」についてほんの一例ですが、具体的に説明いたしました。
記述問題が解けるのであれば、選択肢問題も同様に…と言いたいところですが選択肢は選択肢で“クセ”があります。また、物語文・論説文・随筆文でもそれぞれクセがあります。
一見複雑でやることが多そうですが、対処法はたった一つ。「客観的思考力」を磨くこと。
手がかりを集め、設問を吟味し、問うている内容を精査する。その繰り返しが国語の文章題です。本は大好きなのだけれども、選択肢問題に苦戦しているタイプの生徒は、実は「客観的思考力」が弱い部分があるケースが多いです。
12歳の生徒に、あまり大上段に「客観思考」というやや冷たいフレーズを振りかざすのもかえって分かりづらいでしょうから、表現を変えると「納得ができるか」です。その納得が「100人中99人」にも伝わりそうか、今日も明日も10日後も100日後も納得できそうな考え方か…つまり「普遍性を持っているか」が大切です。そう考えたとき、論理というものは「シンプル」にならざるを得ません。国語指導は、長く続ければ続けるほどシンプルになっていきます。
ただし、指導する生徒は「常に多様」です。“引き出し”の数は増えていかざるを得ません。長く指導を続けていても「簡単になってきた」と感じたことはありません。生徒の個性によりそって、多くの“引き出し”から「客観思考」を身に付けさせることが、個別指導国語のミッションです。