指導方針

① 読めれば解ける
記号選択、記述、適語補充、乱文整序……国語科にはさまざまの設問形式があります。それぞれに解法があり、また、それぞれに対策があるものですが、すべては「本文を読解できているから解ける」という点に集約されると申し上げてよいでしょう。

ですから、授業の礎は読解にあります。基本的なところから高度なものまでございますが「読み方」を習得することが国語科において、ひいては受験において重要であるということです。言い換えるならば、いわゆる「塾技」のような小手先の技術だけでは、常に進化(あるいは深化)する中学受験の国語科に対応するのは不可能なのです。

たとえば、先に「さまざまの設問形式がある」と申しましたが、どの学校でもすべての設問形式が扱われるわけではありません。適語補充の設問がない入試問題を扱う学校も、試験における構成のほとんどを記号選択の設問が占めるような形式で実施する学校もございます。あるいは、ある年度まで物語文と論説文の二題構成だったのに、その翌年度から一題構成へと大胆に路線を変更する学校(!)さえあるのです。

しかし、どんな学校でも、どんな年度でも、もしくはどんな回であっても「入試国語」において確かな事実がひとつだけ存在します。それは「本文がある」ということです。出題されるのが物語文であれ、説明文であれ、随筆文、あるいは詩であれ、すべての設問は本文に端を発し、また収斂されます。単純に申し上げるならば「本文を読めればそれでOK」なのです。

② 正解の選択肢しか見えない
裏を返せば、中学受験の国語科における問題点は「本文を読めていないから」と診断できます。保護者様から常日頃、お電話や面談、あるいは送り迎えの際にお話をいただくことがございます。よく伺うのがこんなお話です。

「選択肢が解けないんです。二つまでは絞り込めるのですけど……。」

ここでお答えすることはひとつ。「本文を読めていないから」です。もちろん、選択肢の吟味が不十分であったり、選択肢の解法をそもそも身につけていなかったりということはございましょう。しかしこの「あるある」の原因のほとんどは読解不足であります。「二つまで絞り込める」は「絞り込めていない」とイコールであり、「絞り込めていない」のは「本文を読めていないから」です。本文に正しくアプローチし、線を引き、隅々まで本文を読み解けば正しい選択肢を選べる、というより「正解の選択肢しか見えない」ことでしょう。

このような、確信をもって答えるという姿勢は算数科、理科科、社会科では当然のように行われていますが、国語科においては確実性の薄いままに解答している生徒さんが多い、というのが実情です。しかし、解けている生徒さんは「この答えがきっと正しい」という状態で自らの解答を作っています。この「正解の選択肢しか見えない」生徒さんの土台となるのが「本文の読解」であり、授業の根幹でございます。

③ アタマとカラダで読み解く国語
 さて、ここまで「読解」がいかに重要かという点について述べましたが、こうした話を差し上げると分析力とか洞察力といったような「アタマで行うこと」に目が行きがちです。確かに重要ではございますけれども、しかしながら「アタマ」は車輪の片方でしかありません。もう一方の端っこには「カラダで行うこと」という輪が必要です。つまり本文に線を引く、読みとったことを書き込むという本文に対するフィジカルなアプローチです。

たとえば国語科で結果が振るわなかったとき、解答用紙や得点を見るのは二の次。まずは問題冊子を確認します。どこに線を引いているのか、本文を読解した結果をどれだけメモとして書き残しているのかをひとつひとつチェックするのです。

もしも国語でつまずいている生徒さんの保護者様がこちらをお読みでいらっしゃるならば、解き終わった後の本文を見てください。ただやみくもに線が引かれている、あるいは本文にほとんど線が引かれていないならば、十分な読解が行われていないのかもしれません。整頓された書き込み、つまり「カラダを含めた」アプローチからは「アタマだけ」よりも数段上の読解が生まれます。こうした具体的な手段や方策を教えるのも授業の核と言えるでしょう。

それでは、どんな授業が行われているのかを「物語文の読解」をふまえて少しだけですがご紹介いたします。

指導実例

① 基礎編
 物語文の読解とは何でしょうか。この問いはあまりに漠然としていますね。ではこう言い換えます。何が出来れば「物語文を読解できた」と言えるのでしょうか。答えは「登場人物の気持ちを読みとること」です。気持ちの読みとり、これが物語文の読解における最終目標です。何を単純なことを、とお考えの方もいらっしゃると思われるので実験してみましょう。以下の「わたし」の気持ちを読みとってみてください。

今日はわたしの誕生日。友達からケーキをもらった。

さて、ここで「うれしい」「喜んでいる」と解答した方は読解が正しくできていません。正解は「この本文だけで気持ちは読みとれない」です。たとえば『わたし』は甘いものが苦手だったら、きっと友達に対して「どうして自分の苦手なものを知っていてくれないのだろう」と不愉快になったり、あるいは「ひょっとして嫌われているのかもしれない」とつらくなったりするでしょう。
いま欠けていたものは登場人物の【人物像】です。年齢、出身、立場、職業、性格、趣味、得意なもの、苦手なこと……このような「どんな人か」をあらわす要素を本文に求めてそ、気持ちの読みとりが行われるのです。では続いて以下の本文から「わたし」の気持ちを読みとってみましょう。

今日はわたしの誕生日。休日には喫茶店を何軒もめぐってしまうくらいケーキが大好き。でも自分で作るのはちょっと苦手。そんなわたしが友達からケーキをもらった。

やはりここでも正解は「読みとれない」です。たとえば、『わたし』が自転車に乗っているときに運悪く大けがをして動けなくなっているとしましょう。ここで友達からケーキを手渡されたとしたらいかがでしょうか。「ありがたいにはありがたいけど、さすがに今はおかしいだろ」と憤っても不思議ではないでしょう。
今回において欠けていた要素は【場面】です。たとえ洋菓子が好きでも、けがを負っている状態においてケーキで祝われたら悠長に喜んでいるはずはありません。
物語文の読解の中心たる「気持ちの読みとり」には【人物像】と【場面】とを可能なかぎり精確につかむことが必須であることをご理解いただけたことと存じます。

② 実践編
先の段で述べました読解法は「気持ちの読みとり」だけに役立つものではございません。【人物像】【場面】に着目しながら、以下の本文を読んでみてください。

海岸の小さな町の駅に下りて、彼は、しばらくはものめずらしげにあたりを眺めていた。駅前の風景はすっかり変っていた。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、固く鋪装(ほそう)されてしまっている。はだしのまま、砂利(じゃり)の多いこの道を駈(か)けて通学させられた小学生の頃(ころ)の自分を、急になまなましく彼は思い出した。あれは、戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童として、この町にまる三カ月ほど住んでいたのだった。――あれ以来、おれは一度もこの町をたずねたことがない。その自分が、いまは大学を出、就職をし、一人前の出張がえりのサラリーマンの一人として、この町に来ている……。
 東京には、明日までに帰ればよかった。二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店で煙草(たばこ)を買い、それに火を点(つ)けると、ゆっくりと歩きだした。
 夏の真昼だった。小さな町の家並みはすぐに尽きて、昔のままの踏切りを越えると、線路に沿い、両側にやや起伏のある畑地がひろがる。彼は目を細めながら歩いた。遠くに、かすかに海の音がしていた。
 なだらかな小丘の裾(すそ)、ひょろ長い一本の松に見(み)憶(おぼ)えのある丘の裾をまわりかけて、突然、彼は化石したように足をとめた。真昼の重い光を浴び、青々とした葉を波うたせたひろい芋畑の向うに、一列になって、喪服を着た人びとの小さな葬列が動いている。
 一瞬、彼は十数年の歳月が宙に消えて、自分がふたたびあのときの中にいる錯覚にとらえられた。……呆然(ぼうぜん)と口をあけて、彼は、しばらくは呼吸をすることを忘れていた。

出典:山川方夫『夏の葬列』https://www.aozora.gr.jp/cards/001801/files/59532_70200.html(青空文庫)

 さて、『彼』が放つ違和感に気づけたでしょうか。
まずは【人物像】をとらえましょう。『彼』は会社員であり、ちょっと時間があったので出張帰りのついでにかつて自分の疎開先だった土地を再訪しています。続いて【場面】です。『彼』の年齢を鑑みると、時代はおよそ1960年代でしょうか。舗装された道やアーケードが設けられているものの、ちょっと歩くと芋畑が広がる様子を見ても、高度経済成長のただなかであることは予想できます。そんなある夏の日差しの下、ゆっくりと歩いていると男が葬列に出くわし、しばらく動けなくなってしまった……という場面です。これらの点をつなぎあわせると『彼』に対する「ある事実」が浮かんでくることでしょう。つまり「『彼』は何かの意図をもってここにいる」ということです。
 集団疎開の先で愉快に不自由なく過ごした、という子どもはまずいません。たとえば向田邦子『父の詫び状』という随筆文にも具体的に表れていますが、まともに食事がとれなかったり病気に罹っても面倒をみてもらえなかったりということがざらにあったようです。そうでなくても、家族と離れ離れになるつらさや寂しさを抱えて三か月を過ごしていたのは間違いないでしょう。つまり「二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある」程度でなんとなく訪れるような土地として、疎開先はまるでふさわしくないのです。「あれ以来、おれは一度もこの町をたずねたことがない」という一文も気にかかります。戦争の終結以来、訪れることのなかった町になぜ何年も経ってから、しかも出張の帰途かたがた、わざわざ途中下車をしてまで降り立ったのでしょうか。
のんべんだらりと字面だけを追っていくと、夏の田舎をゆうゆうと歩いているのどかな風景が浮かんでしまいます。しかし【人物像】【場面】をふまえた、物語文の読解という視点に立つと「この男は一体何をしに来たのだろう。ろくでもない思い出もあったはずなのに……」という不自然さをいぶかしむことで「ここに来たのは何らかの理由、もしくは目的があるに違いない」という強烈な違和感をもって本文を読み進めることになります。つまり、冒頭部分を読んだだけで「本文で何に着目すべきか」が明確になり、周りの生徒よりも一歩進んだ読解へとつながるのです。
ちなみにこの本文は入試問題で用いられたものであり、また、学童疎開や高度経済成長についての知識を持たずに入試本番を迎えるような受験生はほぼおりませんので、この読解に必要な知識が決して小学生離れしたレベルではないことがご理解いただけることと思われます。
ここでは「本文を読み解く」ことの重要性と、それがどう受験当日につながるのかという点について簡単ではございますがお話しいたしました。もちろんですが、これは授業の「一端」です。読み方の「いろは」から学び直したい、線の引き方を習得したい、記述の精度を上げたい……どんな些細なことでも結構です。お気軽にお問い合わせくださいませ。われわれには生徒さんの状態を把握し、それに合わせて適切な指導を行う準備がございます。最後に、ここまでお読みくださいましたことに御礼を申し上げます。ありがとうございました。